1861年レヴィは再びロンドンを訪れ、当時英国に逃れていた慈善カルメル会の教祖ウジェーヌ・ヴァントラスと出会う。ヴァントラスはフランスで悪魔崇拝の教会をつくり、黒ミサなどを行っていた人物であり、ローマ法王庁からの異端の宜告によって国外追放となっていたのである。
ヴァントラスのほうはレヴィに共感の言葉をもって接したのであるが、レヴィのほうは彼をたんに通俗的な妖術師としかみなさなかったようである。レヴィは基本的に魔術哲学を究めようとしたのであり、儀式魔術に関しては否定はしないが、その段階にとどまっていたのでは絶対的な知を見出すのは難しいと考えていたようである。それは後年マンリー・P・ホールが述べている次ような態度であろう。 超越魔法およびあらゆる種類の幻術魔法は袋小路に過ぎない。それはアトランティス的妖術の末裔である。哲学の大道を捨ててそこにさまよい込んだものは、大抵例外なくその愚行の犠牲者になってしまう。人問は自分自身の欲望を制御できなければ、激しくも荒々しい自然霊たちを支配するという仕事はとうてい不可能なのである。
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勿論真の道士となり得たときには、儀式魔術の全てをも自在に活用することは出来るであろう。しかしその域に達するまでが問題なのであり、好奇心を満たすという人間的な欲望がどうしても介在してしまう儀式魔術の'実践からは道士に達するのは非常に困難なことなのである。 その後もレヴィは、数多くの彼の信奉者たちとの交際を受け人れるが、彼にとっては皆低俗な妖術師ばかりであり、軽蔑の念しか抱かせはしない者たちであった。それでも彼は自分の研究を深化させて行き、1862年には『神話と象徴』、1865年には『聖霊の科学』などを出版する。
そして彼の死後の出版とはなったが、1868年にはカバラの最も重要な教典である、『セフェール・ハ・ゾハール』の注釈書を仕上げる。
エリファス・レヴィの晩年は悲惨な生活を強いられていたようである。それは彼が妖術使には決してならなかったということの証しでもある。貧困のなかで、しかし魔術を信じて、1875年に六十五歳でこの世の存在という一形式を捨てた。
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