二.天啓と神秘
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・生来の蕩子
日夏詩に於いては、作為的に隠されているわけではないが、しかし決して、安易な理解を拒絶する、ある種の冷厳な力が漲っている。それは、一種の読者に対する拒絶とも受け取れる印象である。通俗的な認識では、難読字の多用とか、日夏自身の「一般の人の讀書的識見と貞操とを問題にしてはいない」(1)と云う態度に起因するように思われる。
しかしながらそれはやはり、皮相的な捉えかたでしかない。冷厳な力とはすなわち濃密な美であり、それを支えているのが一般的な識見の範疇には収まり切らない知識であろう。
日夏のそのような力とは、ある意志的な感覚、あらゆる対立要素を対立状態のまま取り込み総合するという、謂うなれば歓喜と呼ぶべき感情の是認から成立しているように思われる。日夏は自身のその様な感性を直視し、そこから開かねばならない扉を開けたのである。
すなはち、身自ら打ち克ち難い心の癌種に疾みつつ、身自ら調和し難い様々の對象を兼ね収めようと徒に焦心狼狽する一種癒しがたい性来の文學上蕩子であるかもしれぬ。(2)
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・かたちである美
ではその様な相反する感情を表現する拠り所なるものは何か。それは決して情念を無自覚に垂れ流すことではない。その様な方法では、ある志向性を持った精神に対して、何一つとして満足な結果を与えるものではないからである。従って日夏は、調和しないように思われる感情を強制的な枠組みの中に填め込む形を求めた。単に対立を和解の形で止揚するのではなく、対立を対立状態のまま閉じ込め、二つの対立を包含しつつ超越する三つめの法則を現出させること、それが日夏の取った方法である。従って日夏に於いては、美は確実に形式である。形式に於いてのみ事物は捉えられ、事物を捉えることによってのみ観念が成立し得るのである。
詩は藝術である。巧藝は表現である。表現の生命はかたちにある。かたちを見ることは難しいものだ。われらはかたちによつてのみ内部生命を消息せしめる。あだかも、哲學者が推理をたよるように。かたちの核心は技巧である。
このような日夏の志向は、単に表現上の問題だけではなくて、その裏側にある思想にも求められる。すなわち、日夏は見えないもの、言い得ないものを丸ごと取り込むべき形を欲した。
「特に、科學の破産を經驗し既成宗教の更改と其の新しき見方説き方に腐心する現代に」(3)於いては、日夏のその様な希望を満たすものはやはり隠された学問、神秘の学以外には無かったのである。
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・裸形の女
現在の知の領域では説明し得ないもの、それを全てを捉えようとするという日夏の出発は、人間としては余りにも不遜な希望であったかも知れない。だがそれ故に日夏は、敢えてそれを行わねばならぬと云う神秘的な啓示を受けたものと思える。それはきっと、無限の知を獲得しなければならないと云う啓示であったに違いない。
そして日夏はその手段として、完璧なる言語美を選択した。つまり、日夏にとって、詩とは、知の無限性に挑む武器として与えられたものであった。それは一種の天啓の形をとって、日夏をしてそうせざるを得ない宿運が命じたのである。彼は自分のその始まりを、こんな風な詩句で表現している。
昏黒の霄たかきより 裸形の女性堕ちきたる
緑髪微風にみだれ
雙手は大地をゆびさす
劫初の古代よりいままで 恆に墜ちゆくか
一瞬のわが幻覺か
知らず 暁の星どもは顔青ざめて
性急に嘲笑ふのみ (4)
突然、女が天空より墜ちてきたのだ。この刹那に日夏は自分の為すべきことと、その方向性を見出したであろう。同時におそらくはその結果も見えていたかも知れないが、拒否出来るようなものでは断じてなかった。従って、現実には回りの衆愚が嗤おうとも、自らそれに従うことを肯じた。つまりそれは、今までの日常的生活から脱却して、自分の信じられるところの永遠性に向かうということである。それ故、日夏の第一の詩集の題は、必然的に『轉身の領』となったのである。
因みに、これを錬金術象徴で解読するならば、女とは月すなわち女性原理の象徴であり、揮発物あるいは練金作業のための銀を指し示すものとなる。そしてさらに裸形であるということは、さらにその純粋性を強調していることとなる。純粋な揮発物であり、天上へと浮遊し消えてゆく存在である裸形の女が、その力に逆行した形で堕ちて来て地上を指差すということは、すなわち今一度の錬金作業を行なえという暗示に外ならないであろう。
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・聖痕
そしてさらに決定的な天啓を日夏は認識した。
心忙しく茂林を漫歩りきつつ
わが哀傷の聖痕を凝視めたり(5)
じっと自らの手を見る。それは石川啄木が『一握の砂』で描写している光景と、行為としては同じものである。しかし日夏の眼が凝視しているものは、人間の贖罪の証しである聖痕(Stigmata)である。
聖痕とは、周知の如くイエス・キリストが磔刑に処せられた際に打ち込まれた釘の傷跡が現出すると云うものである。それは単に信仰の深さによって現れるものではない。パウロが、「わたしは、イエスの焼き印を身に帯びている」(6)と言った意味と同様に、それは自分の持つ使命に気付いたものが受ける証しであり、逃れることの出来ない自らの宿命の象徴として存在する。
つまり日夏は、裸形の女によって、為すべきことを指示され、さらに聖痕によって、その行為者が自分自身であり、逃れることが出来ないと云うことを悟ったのである。
これで詩作のすべての要素が整った訳である。自らの打ち消し難い渇望、そして天啓によって動機は完了し、錬金術の方法論を携えながら、聖痕で象徴される自分の宿命としての進むべき道を歩み出して行く。
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・錬金術の求めるものとの一致
ではその錬金術とは一体どのようなものであろうか。ここで錬金術の目指したものを簡単に概観して見たい。
一般に膾炙している見解では、錬金術は最終的に金の製造を目指すものであり、近代科学に対して擬似科学的なものであると云う。しかしこれは明らかに錬金術のもっとも通俗的な捉えかたであり、余りにも一面的なものである。そこでもう少し好意的な見解には、金の製造と云う技術的な行為と精神の精練と云うより深い意味があると捉える見方がある。
しかしながらそれでもまだ、錬金術の真の目指すところには程遠いものである。錬金術とは、近代の科学的、つまり合理論的なものとは全く異なったパラダイムに属するものである。従ってそれは、精神と肉体と云う二元論的な考え方の範疇にも入っていない。
真の錬金術師は金の製造と云う物質的作業を行ないながら、同時に精神の解脱と云う神秘的作業を平行して行なうのである。物質的作業と神秘的作業の両者はコレスポンダンスと類比によって厳密に結び付いており、どちらが欠けても所期の目的を達することは出来ないものなのである。
コレスポンダンス(照応)と類比とは、錬金術を含めた隠秘学における最も基礎的な考え方であり、宇宙の全ての存在には類似による対応があり、その相互影響の元に事象が展開すると云う言説である。つまり、合理論的な科学では偶然とされる事象も、錬金術に於いては決して偶然ではない。偶然が成立するためには何かしらの必然が必ずある筈だというのが、錬金術の考え方である。
このような考え方は、隠秘学中興の祖とされる十九世紀フランスのエリファス・レヴィによって当時のロマン派や象徴派の文学者達に広く敷衍したものである。次に示す、ボードレールの「コレンポンダンス」と題された詩も、隠秘学者レヴィの思想を反映したものである。
「天地」は宮居なり、宮柱生きたりな、
時ありて、おぼろげに言告ぐらしも。
象徴の森わけて、人間のここをよぎるに
森の目の、親しげに、見守りたるよ。
夜のごと、光のごとく、底ひなき、
暗くも深き冥合の奥所なる、
聲長き遠つ木魂の、とけ合ふとさながらに、
匂ひと、色と、ものの音と、相呼び合ふよ。(7)
では、全てが必然的な法則に支配されている世界の秘密を解き明かすことによって得られる結果とは何か。一言で謂うならば、それは人間の完全なる解放と自由である。フォン・エックハルツハウゼンはその著書『聖壇の上の雲』で、次のように表現している。
復活は三つの次元にわたって行なわれる。第一にわれわれの理性の復活。第二にわれわれの心ないしわれわれの意志の復活。最後にわれわれの全存在の復活である。第一および第二のそれは霊の復活と呼ばれ、第三のそれは身体の復活と呼ばれる。神を求める敬信の人々で、精神および意志の再生を経験したものは多いが、身体の復活を経験したものは少ない。(8)
このように、単に精神の復活だけではなく肉体をも含めた人間の全的な復活、すなわち救われていて自由と云う究極的な解放を成し遂げようというものが錬金術なのである。従って単なる神秘主義的思想という観点だけでは捉えられるものでは決してない。錬金術に於いては、天使の身体の獲得と云うことが、非常に重要な意味と意義を持つものとなるのである。
そしてまさにそのような、精神だけはなく肉体をも含めた解放とは、二つの対立を対立のまま超克しようと欲した日夏の探し求めたものと完全に一致した理論であったと言えよう。
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・出発
錬金術に於いては、その道に深く通暁し最も高い知識の獲得にまで達したものを達人
(Adepte) と呼ぶ。つまり達人とは、宇宙の律動原理を最も深く理解した者の謂いである。そして達人への道を決意した日夏は、まさに前人未踏の一歩を踏み示そうと歩み出した。当然、その道は果てしなく険しく、誰にも理解されぬ道ではあったが。
小慧しい黒猫の柔媚の聲音
青ざめた燐火をとぼすあたたかなその毛なみ
琥珀にひかる雙瞳を努めて遁れたいゆゑに
環 儂は漂白ひいづる門出である
月光 大地に降り布き
水銀の液汁を鎔解しこんだ天地萬物の裡
ああ 儂が旅く路は
胆胆とただ黝い(9)
このような豁然たるロマンティックな口調でもって、日夏は未知の奥深き世界へと旅だつことの決意表明を行なったのである。未知の世界とは、謂うまでもなく、隠され続けてきた、常人が立ち入ることを拒み続けている、真正の学問、隠秘学である。
だがしかし、日夏は詩人であり、芸術家であることを捨てた訳ではない。日夏にとっては隠秘学的方法論は自らの芸術のスタイルと、その象徴体系の源泉として断じて必要ではあったが、隠秘学者ないし錬金術師そのものになろうとした訳ではない。
従って日夏はあくまで、芸術表現による自らの解放を目指す。
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